【新企画】「なんの日調査隊」〜5月17日は伊能忠敬が測量できなかった城ヶ島を測量 [なんの日調査隊]
【新企画始動】
今日はなんの日か?その日に因む事柄を調査する「なんの日調査隊」という企画が始まりました!
第1回目は5月17日に因むことをテーマにしようと、TOKIOの5人が集まって検討した。
●1942年5月17日=東京・井の頭恩賜公園に動物園(自然文化園)がオープン
〜象のはなこは日本最年長の68歳で今も動物園の人気者。
●1875年5月17日= 北海道に屯田兵(開拓・警備する人)が移住。
〜北海道の街並みの多くは屯田兵によって造られた。
●その他=石原裕次郎が銀幕デビュー、V6井ノ原快彦の誕生日、
プッシュボタン電話機の販売開始などあるが、
●1818年5月17日=伊能忠敬の命日ということにTOKIOは注目した!
伊能忠敬は、17年間4万km地球1周分歩いて『大日本沿海輿地全図』を作った。
これは今の地図と殆んど変わらない正確さだった。
コンピュータもなければGPSもない時代に、一体どうやってこのような精密な地図を
作ったのか?
そして、見つけた!伊能忠敬が測量できなかった島を!
城ヶ島を歩いて測量する
そこは城ヶ島(神奈川県三浦市)!
「歩測といいまして、伊能忠敬は歩いて測っていたんです」と言うのは、文教大学付属高校・日本史教諭の河合敦先生。伊能忠敬は歩幅がきわめて正確で、69cmで歩いていた。同じ歩幅で歩く訓練を何年もしたというのだ。
そして作成した地図『伊能図』は沿岸などをつぶさに測量して歩いたが、それを見ると、今の神奈川県の城ヶ島のところだけが赤い線が付いていない。赤い線は沿岸の測ったところだが、それが付いていないということは、実際に測っていないということ。
なぜかというと、『伊能忠敬測量日記第一巻』によると、測量日の朝に起きた大地震のため舟が出せなかったためなのだ。「遠見遠測になる」ということになったのだ。
「命日にオレたちが何ができるかと考えたら、伊能忠敬さんができなかった無念をはらす」と松岡が宣言。城島茂ならぬ「城ヶ島茂」と組んで、実測にとりかかることになった。
測量のスタート地点は、城ヶ島漁港。
当時の着物姿に変身した松岡と城島、それとスタッフ、河合先生とで測量が開始された。
目印の梵天(旗を付けた測量の長い棒)から梵天まで松岡が歩いて測る。
松岡は同じ歩幅で歩く練習をしたうえで、この測量に臨んだ。その歩幅80cm。
まずは直線地帯の最初は32歩だった。つまり25.60m。これを一覧表に書き留めていく。
伊能忠敬と同じ測量方法で行うのだ。
「伊能は一日40km測りました」と河合先生。
「24時間テレビ出れるね」と松岡。
次に曲線部分だが、「わんからしん」という杖付きの方位磁石を使って、その部分の北に対する角度を測って記録する。これを連続し、あとから線で結ぶと、曲線が描かれるというやり方だ。
角度を測るのは城島の役目。
途中のヨットハーバーに遮られたが、城ヶ島の石橋区長にお願いして許可を得る。
研究所に遮られたときは撮影許可は降りなかったが、測量だけさせてもらった。
ドックではそこの人に案内されて修理中の船や、沖縄の最新型水中展望船の造船風景などを見学できた。
しかし、海岸線には崖もある。
歩測が無理なところは、「間縄」(けんなわ)と言って縄をわたらせて測った。
ちなみに城島は44歳だが、伊能忠敬が測量を学んだのは50歳を過ぎてから。全国の測量を終えたのは71歳の時。
「伊能さんはすげえなー」松岡が感心した。
「水っ垂れ」という水がちょろちょろ落ちて来る場所もあった。
「昔この水を使って源頼朝が書を書いた」と区長さん。
全く枯れることなく落ちて来る水なのだ。
午後6時15分、こうして城ヶ島見学も兼ねながら、一行は第1日目の測量を終えた。
民宿では、昼間集めたデータを地図にしていく作業を行った。縮尺は1000分の1。
すらすらと地図に落としていく城島。
この測量作業、一日ではとても終わるものではない。
第2日目はTOKIOが都合ではずれたため、スタッフだけで行った。
測量最終日
測量第3日目は、再び城島、松岡が加わった。
進んでいくと、どうしても測量不可能な場所にぶつかった。磯の崖である。
「こういう時伊能忠敬はどうしてたんですか?」と松岡。
「舟を使いました」と河合先生。
途中鵜の営巣地にも出会う。
というわけで舟に乗っての測量も交えて、測量は順調に進んだ。
途中の昼食は伊能の時代にあやかって、竹皮に包んだおむすび。
これに河合先生が持ってきた「しそ巻き唐辛子」を食べる。
伊能も実家から送ってもらったものだという。
「うん、これは合う」と城島。
松岡もしきりにうなずいた。
こうして城ヶ島の名所、「馬の背洞門」にたどり着いたのは、測量開始から延べ16時間後。
城島は3ヶ月前、ここで寒メジナを釣り上げていた。
城ヶ島を測量すること3日。参加スタッフ延べ78人。
城島の疲れがピークに達したその時、松岡が指差す方向は、
スタート地点だった。
地図完成!?
ついに測量を終えた!
民宿に一同揃って、地図を完成させる作業に入った。
すると、最後のデータを地図に落としたスタッフから、データが足りないと言う声が。
35cm、つまり350mつながらないというのだ。
松岡の歩幅のずれが溜まりに溜まった結果なのか?
「つなげましょうよ」という松岡。
「こうやって見るとつないでも違和感はない」と城ヶ島観光協会会長の声。
しかし、ここで城島が立ち上がって言った。
「そこは、ボクは、計測不能じゃないですけど、やっぱり伊能忠敬先生には勝てなかったと」
「男らしいね。負けを認める城島茂」と松岡も感服。「オレは黙って結んでしまおうかと思ってたけど」(笑)
TOKIOが測った城ヶ島の地図と、GPSで測った正確な地図を重ねてみると、
スタートからしばらくは正確に重なった。しかし島の右半分で大きくズレが出ている。ここは城島に疲れがみえたところ。しかし昼食後は再び正確さを取り戻した。馬の背洞門あたりでは松岡に疲れが出た様子。そこに歩幅の乱れが出たか、左半分に大きなズレが出てしまった。
城島は地図のつながらない部分にこう書いた。
「伊能先生に敵わぬ350m!!2015.5.17城島茂書」と。
伊能忠敬先生、あなたは本当にすごかった!!!
2015年5月17日夜7時・日本テレビ系「ザ!鉄腕!DASH!」より
【DASH島公式HP】http://http://www.ntv.co.jp/dash/contents/island/index.html
今日はなんの日か?その日に因む事柄を調査する「なんの日調査隊」という企画が始まりました!
第1回目は5月17日に因むことをテーマにしようと、TOKIOの5人が集まって検討した。
●1942年5月17日=東京・井の頭恩賜公園に動物園(自然文化園)がオープン
〜象のはなこは日本最年長の68歳で今も動物園の人気者。
●1875年5月17日= 北海道に屯田兵(開拓・警備する人)が移住。
〜北海道の街並みの多くは屯田兵によって造られた。
●その他=石原裕次郎が銀幕デビュー、V6井ノ原快彦の誕生日、
プッシュボタン電話機の販売開始などあるが、
●1818年5月17日=伊能忠敬の命日ということにTOKIOは注目した!
伊能忠敬は、17年間4万km地球1周分歩いて『大日本沿海輿地全図』を作った。
これは今の地図と殆んど変わらない正確さだった。
コンピュータもなければGPSもない時代に、一体どうやってこのような精密な地図を
作ったのか?
そして、見つけた!伊能忠敬が測量できなかった島を!
城ヶ島を歩いて測量する
そこは城ヶ島(神奈川県三浦市)!
「歩測といいまして、伊能忠敬は歩いて測っていたんです」と言うのは、文教大学付属高校・日本史教諭の河合敦先生。伊能忠敬は歩幅がきわめて正確で、69cmで歩いていた。同じ歩幅で歩く訓練を何年もしたというのだ。
そして作成した地図『伊能図』は沿岸などをつぶさに測量して歩いたが、それを見ると、今の神奈川県の城ヶ島のところだけが赤い線が付いていない。赤い線は沿岸の測ったところだが、それが付いていないということは、実際に測っていないということ。
なぜかというと、『伊能忠敬測量日記第一巻』によると、測量日の朝に起きた大地震のため舟が出せなかったためなのだ。「遠見遠測になる」ということになったのだ。
「命日にオレたちが何ができるかと考えたら、伊能忠敬さんができなかった無念をはらす」と松岡が宣言。城島茂ならぬ「城ヶ島茂」と組んで、実測にとりかかることになった。
測量のスタート地点は、城ヶ島漁港。
当時の着物姿に変身した松岡と城島、それとスタッフ、河合先生とで測量が開始された。
目印の梵天(旗を付けた測量の長い棒)から梵天まで松岡が歩いて測る。
松岡は同じ歩幅で歩く練習をしたうえで、この測量に臨んだ。その歩幅80cm。
まずは直線地帯の最初は32歩だった。つまり25.60m。これを一覧表に書き留めていく。
伊能忠敬と同じ測量方法で行うのだ。
「伊能は一日40km測りました」と河合先生。
「24時間テレビ出れるね」と松岡。
次に曲線部分だが、「わんからしん」という杖付きの方位磁石を使って、その部分の北に対する角度を測って記録する。これを連続し、あとから線で結ぶと、曲線が描かれるというやり方だ。
角度を測るのは城島の役目。
途中のヨットハーバーに遮られたが、城ヶ島の石橋区長にお願いして許可を得る。
研究所に遮られたときは撮影許可は降りなかったが、測量だけさせてもらった。
ドックではそこの人に案内されて修理中の船や、沖縄の最新型水中展望船の造船風景などを見学できた。
しかし、海岸線には崖もある。
歩測が無理なところは、「間縄」(けんなわ)と言って縄をわたらせて測った。
ちなみに城島は44歳だが、伊能忠敬が測量を学んだのは50歳を過ぎてから。全国の測量を終えたのは71歳の時。
「伊能さんはすげえなー」松岡が感心した。
「水っ垂れ」という水がちょろちょろ落ちて来る場所もあった。
「昔この水を使って源頼朝が書を書いた」と区長さん。
全く枯れることなく落ちて来る水なのだ。
午後6時15分、こうして城ヶ島見学も兼ねながら、一行は第1日目の測量を終えた。
民宿では、昼間集めたデータを地図にしていく作業を行った。縮尺は1000分の1。
すらすらと地図に落としていく城島。
この測量作業、一日ではとても終わるものではない。
第2日目はTOKIOが都合ではずれたため、スタッフだけで行った。
測量最終日
測量第3日目は、再び城島、松岡が加わった。
進んでいくと、どうしても測量不可能な場所にぶつかった。磯の崖である。
「こういう時伊能忠敬はどうしてたんですか?」と松岡。
「舟を使いました」と河合先生。
途中鵜の営巣地にも出会う。
というわけで舟に乗っての測量も交えて、測量は順調に進んだ。
途中の昼食は伊能の時代にあやかって、竹皮に包んだおむすび。
これに河合先生が持ってきた「しそ巻き唐辛子」を食べる。
伊能も実家から送ってもらったものだという。
「うん、これは合う」と城島。
松岡もしきりにうなずいた。
こうして城ヶ島の名所、「馬の背洞門」にたどり着いたのは、測量開始から延べ16時間後。
城島は3ヶ月前、ここで寒メジナを釣り上げていた。
城ヶ島を測量すること3日。参加スタッフ延べ78人。
城島の疲れがピークに達したその時、松岡が指差す方向は、
スタート地点だった。
地図完成!?
ついに測量を終えた!
民宿に一同揃って、地図を完成させる作業に入った。
すると、最後のデータを地図に落としたスタッフから、データが足りないと言う声が。
35cm、つまり350mつながらないというのだ。
松岡の歩幅のずれが溜まりに溜まった結果なのか?
「つなげましょうよ」という松岡。
「こうやって見るとつないでも違和感はない」と城ヶ島観光協会会長の声。
しかし、ここで城島が立ち上がって言った。
「そこは、ボクは、計測不能じゃないですけど、やっぱり伊能忠敬先生には勝てなかったと」
「男らしいね。負けを認める城島茂」と松岡も感服。「オレは黙って結んでしまおうかと思ってたけど」(笑)
TOKIOが測った城ヶ島の地図と、GPSで測った正確な地図を重ねてみると、
スタートからしばらくは正確に重なった。しかし島の右半分で大きくズレが出ている。ここは城島に疲れがみえたところ。しかし昼食後は再び正確さを取り戻した。馬の背洞門あたりでは松岡に疲れが出た様子。そこに歩幅の乱れが出たか、左半分に大きなズレが出てしまった。
城島は地図のつながらない部分にこう書いた。
「伊能先生に敵わぬ350m!!2015.5.17城島茂書」と。
伊能忠敬先生、あなたは本当にすごかった!!!
2015年5月17日夜7時・日本テレビ系「ザ!鉄腕!DASH!」より
【DASH島公式HP】http://http://www.ntv.co.jp/dash/contents/island/index.html
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